2016年5月24日火曜日

第34話 薩摩義士 ~鹿児島と岐阜~

このブログで一番読んで頂いている記事が「鹿児島と岐阜」。
今日はその記事に関する記事を書きたいと思います。

                              



今からおよそ260年前の5月、一人の薩摩藩の家老が自刃しました。平田靱負です。


なぜ彼は自決したのか…。彼は何者なのか…。



鹿児島市の鶴丸城跡の横にある、将棋の駒を並べたような薩摩義士碑。
城山遊歩道の入口にあるのをご存じですか?


一番上にある碑は平田靭負です。


彼を筆頭におよそ1000人の薩摩義士が岐阜県での堤防工事を行った、木曽三川の治水工事が背景にあります。世に言う「宝暦治水」です。
鹿児島県と岐阜県の姉妹県盟約は、まさにこの治水工事がきっかけで結ばれました。その時、治水工事を行った薩摩義士。彼らの供養墓塔として造られたのがこの薩摩義士碑です。ちなみに鹿児島市の大中寺に薩摩義士のお墓もあります。


木曽三川とは岐阜、愛知、三重を流れる木曽川(きそがわ)長良川(ながらがわ)揖斐川(いびがわ)の3つ
この三川が合流する岐阜県の南部は大雨のたびに洪水が起こり、大変な苦労がありました。

その木曽三川の洪水から救うべく、治水工事の命令が幕府から薩摩藩にきました。
でも、なぜ薩摩藩だったのでしょう?その理由とは…


その① 地方の大名の中の筆頭だった薩摩藩の財力・勢力を弱めるため
その② たまたま、幕府のお手伝いの順番が回ってきたため
その③ 薩摩藩には工事力があったため


と、諸説あるようですが、一番目の「薩摩藩の力を弱める」という目的があったからという事が一般的に言われています。

幕府と戦うかおとなしく命令をきくか…薩摩藩は一人の男の声で治水工事を行う決意をしました。後に工事の総奉行に任命される事になる薩摩藩の家老だった平田靭負です。
「命令を断れば幕府を戦うことになるし、他の藩の事であっても苦しんでいる人を助ける事こそ武士の本分だ」と言って皆の考えをまとめました。



工事には、もちろん費用がかかります。しかし、当時、既に多額の借金を抱えていた薩摩藩。財政はひっ迫していたため、藩の特産物である黒砂糖などの専売権などを担保にしてまで、費用を集めました。工事の設計や監督は幕府が行うのに対し、工事の費用のほとんどは薩摩藩が負担するものでした。


そして、実際工事を始めても、梅雨時期にはせっかく作った堤防が壊されてしまったり、幕府の役人が嫌がらせをしたりという苦難が続く中、病死する者、自ら切腹する者、中には自らの命を絶つ事で幕府への怒りを表現した者もいたそうです。

そういった苦難を乗り越えて完成した工事は、幕府の役人が文句ひとつ言えないほど立派なものでした(現在の三川の姿は昭和の沿岸工事によるものだそうです)
しかし、平田靭負はおよそ80人という多くの犠牲者を出した事、現在の金額にして300億円という多額の費用を費やさざるを得なかった事などの責任を感じて、薩摩藩に工事の完成を報告した翌日の5月25日、平田靭負は切腹し、52年の生涯を閉じました。




この薩摩義士碑は工事で亡くなった86名の石碑が建てられています。その中には実は3名の幕府の役人も含まれているそうです。「なんで意地悪な幕府の人間なんか入れるんだ!!」と思いますよね?
しかし、中には幕府のやり方に納得がいかないと思っていた正しい役人もいたようです。


そして、毎年、彼の命日の5月25日は薩摩義士の治水工事の功績を後世に継承しようと鹿児島市の平田公園(平田靱負の屋敷跡)で慰霊祭が行われています。
まさに明日です!
さらに、それに併せて鹿児島県と岐阜県の学生の交流なども行われています。





歴史を知った上で見ると、また見え方が違ってくる事でしょう。

鹿児島には「他県の人の為に命をかける…」こんな歴史もあったんです。


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